第11回 藤原道長と頼通の「みち」の字が違うよ

                         

藤原氏といったら「道長」と「頼通」。でも、「みち」の字が違います。気をつけてね。

 

さて、藤原氏の祖先は、藤原鎌足。あの「中臣鎌足」です。大化の改新後、「藤原」の姓をもらいました。もともと天皇とは関わりが強かったのですが、鎌足の孫が聖武天皇の奥さんになったことから、ますます天皇との関係が深まりました。イコール、政治において強い力を持つってこと。
866年に藤原良房が摂政になり、887年には基経が関白になります。それ以降の約100年間、藤原氏は実権を握るのです。(すっご~~い!!)だから、いろいろな貴族が、わいろとして荘園(墾田永年私財法により、私有地となった田)をあげちゃうわけ。(納得) すると、ますます藤原氏は栄える。

 

「摂政」といえば、聖徳太子ですよね。推古天皇に代わって政治を行いました。同じように、藤原氏も、天皇が幼かったり、病弱だったりしたときに、「摂政」となって天皇に代わって政治を行います。そして、天皇が大きくなると、天皇を助けて政治を行うのが「関白」。豊臣秀吉も「関白」の地位について政治を行いました。だから、織田信長は「全国統一」したとは言わないけれど、豊臣秀吉は「全国統一」したと言うのです。(と覚えればわかりやすいかな?)

 

藤原氏が一番栄えたのが、西暦1000年頃の「道長」「頼通」親子の時。道長は、4人の娘を天皇の奥さんにして、権力を握ったのです。だから、「この世をば わが世とぞ思う もち月の 欠けたることも なしと思へば」なんて歌を詠んでしまう。思い通りにならないものなんてないと思っていたのでしょうね。

 

そのむすこ「頼通」は、約50年間も政治を独占しました。この人とペアで覚えてほしいのが、平等院鳳凰堂です。その頃はやっていたのが、「浄土信仰」。「阿弥陀仏」にすがって念仏を唱えると、死んだ時に極楽浄土に行けるというもの。そこで、頼通は、京都府宇治市の平等院に「阿弥陀堂」を建てたのです。一見、貴族の住居の造りである寝殿造のようですが、厳密に言うと寝殿造ではないようです。

 

ここで、「浄土信仰」について少し説明します。この言葉と一緒に用いられるのが「末法思想(まっぽうしそう)」です。これは、ちょうどその頃に末法の世の中、つまり災いが絶えない世の中がくるという考えで、その災いから逃れるために阿弥陀仏の前で「南無阿弥陀仏」と唱えれば、「極楽浄土」へ行けるよ、という教えが「浄土信仰」。簡単に言っちゃうと、この頃に「地獄」と「極楽」という考え方が広まり、人々は「地獄」に行きたくないから「念仏」を唱えるってわけ。それまでの「天台宗」「真言宗」は一般の人々とは遠くかけ離れたものだったのですが、一般の人にも仏教を広めようと考えだされたのが「念仏」。「南無阿弥陀仏」といって手をあわせればいいのだから、簡単でしょ。(ちなみに、鎌倉仏教の「日蓮宗」の「題目」である「南無妙法蓮華経」のほうが、幽霊には効くって。誰かが言ってたような…。)

 

「地獄」と「極楽」って、仏教を広めるために利用されちゃったのね。どこかの新興宗教みたい。ハルマゲドン? 地獄と一緒じゃない。実際には無いのに、あるかのごとく言って人々を怖がらせ、自分だけ生き残りたければお金を寄付して信仰しなさいって。みんな、だまされちゃ駄目だよ。

 

阿弥陀堂で、ちょっと頭の隅に入れておきたいのが、岩手県「平泉」の「中尊寺金色堂」。奥州(東北)藤原氏の3代がミイラになって安置されているのも阿弥陀堂です。金箔を使ってあるので、きらきら輝いています。この藤原氏は、源義経をかくまったといわれている一族です。 平泉いったいは、世界遺産に登録されました。(平成23年6月)


☆☆ 今回の目標  藤原氏についての知識をふやそう ☆☆