第25回 日本は、なぜ鎖国したのか

 

 豊臣秀吉の頃から、「朱印船貿易」という東南アジアとの貿易が行われていたようで、日本町という日本人の居留地が東南アジアにでき、西国の大名や大商人たちが活躍していました。


 また、キリスト教は、秀吉が宣教師を国外追放するまで、西国の大名の間に広まり、キリシタン大名と呼ばれる九州の大名たちは、少年使節団をローマに送るなどキリスト教を広めていました。

 

 しかし、貿易によって西国の大名たちが裕福になり、キリスト教を中心に団結しだしたので、秀吉をはじめ天下をとる者たちは、あわてて西国の大名の力を抑えようとします。その究極の結果が鎖国でした。宗教というものは、想像以上に力のあるもので、家康が「寺社奉行」を作ったのも、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにあわせたくらいの力(政治に口出しする力)を持ってしまいかねないものだからです。西国の大名を抑えるには、キリスト教を禁止することが必要でした。そして家光の頃には、外国=キリスト教だったので、家光は「鎖国」に踏み切ったのです。だから、鎖国した後も交易を許されたのは、仏教の国「中国」とキリスト教の布教を進めていたスペイン・ポルトガルに対抗して、布教活動はしないと幕府に約束した「オランダ」だけだったのです。


 もちろん、朱印船貿易も終わります。長崎の出島で行われる貿易の権利はすべて幕府が抑えました。

 

 家光に「徹底的な鎖国」の決心をさせたのは、天草・島原一揆です。幕府のキリシタン弾圧、領主の圧政に不満を持った農民たちが、天草四郎時貞を総大将として原城にたてこもり抵抗しました。これを機に、ポルトガル船の来航を禁止にして鎖国は完成し、キリシタンの取り締まりが厳しくなります。「絵踏み」ですね。それでも隠れキリシタンは後をたたず、九州地方のキリシタンは、仏壇の裏にマリア様を飾り、仏壇を通して、毎日お祈りをしていたそうです。

 

 ひとつ知っておいてもらいたいのは、その頃、「鎖国」をしていたのは日本ばかりではなかったということです。「中国」や「朝鮮」も「鎖国政策」をとっていました。外国を締め出さないと、東南アジア諸国のようにヨーロッパの植民地となってしまうおそれがあったからです。(しかし、「中国」では、イギリスとのアヘン戦争により、日本より先に開国します。日本もそれを知って、アメリカの要求をのんで開国したのでした。)

 

 もうひとつ、鎖国時代であったにもかかわらず、18世紀以降の日本では、蘭学が流行します。オランダ語をとおして、ヨーロッパの技術・科学を学んでいきました。それは、明治になってからの近代化がスムーズに進んだ要因のひとつになります。徳川幕府にとって、良かったのか悪かったのかはわかりませんが、幕府が蘭学を容認していたことは、日本にとってはよかったのではないでしょうか。

 

 また、鎖国によって平和な状態が長く続いたことにより、日本の経済や文化は大きく発展しました。旧ソ連の指導者ゴルバチョフが言っていましたが、第二次世界大戦後の日本経済の大きな成長は、日本が「平和主義」をとったからだといいます。戦争がなく、平和だったから、経済が成長した・・・確かに中東の国々のように戦争ばかりの毎日では、経済は発展しませんね。そんな意味からも、「戦争をしない」ことは、人々の幸福につながるのかもしれません。

 

 話がそれました。次回は、江戸時代の経済の様子を話すことにします。

 

☆☆ 鎖国がもたらしたものは何かを知ろう! ☆☆