第37回 ロシアとの関係 

 

  1792年    ラクスマン根室に来航
  1808年    間宮林蔵、樺太探検
  1855年    日露和親条約
  1875年    樺太・千島交換条約
   1895年    三国干渉
  1904~05年 日露戦争・ポーツマス条約

 

日本はアメリカの「黒船」が来て開国しましたが、実は、ロシアは黒船より前に日本に来ていたのです。1792年(寛政の改革が終わる頃)、北海道の根室にロシア船がやってきました。そして、国交を要求したのですが、日本は断りました。「外国船打払令」がでたのは、この後の1825年です。

 

 日本がアメリカと和親条約を結んだのが1854年。翌年には、ロシアとも和親条約を結んでいます。函館、長崎、下田の3港を開港、択捉島のところに国境を設けるなどの内容でした。それに続き、修好通商条約も結びます。どちらも「不平等条約」でした。

 

 その後ロシアとの関係が表だってきたのは、1875年(明治8年)のことでした。日本とロシアの国境を定めた「樺太・千島交換条約」です。日本は「樺太」を放棄し、「千島全島」を日本の領土とすると決めたのです。「樺太」は、1808年に間宮林蔵が樺太を探検したこともあり、日露和親条約で日本とロシア両方のものとされていたところです。そこをしっかりロシアの領土としたのです。

 

 日清戦争後、ロシアは、満州・朝鮮をねらってきます。日本に、リャオトン半島を中国に返させ(三国干渉)、そのリャオトン半島の都市「旅順」と「大連」を中国から租借(借りる)します。一方、日本はイギリスと手を組み(日英同盟)、ロシアに対抗します。1904年日露戦争が始まりました。日本海海戦では、日本の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を攻撃し勝利します。ロシアは国内で革命がおきていたこともあり、アメリカの仲介で「ポーツマス条約」を結びました。これにより、「樺太」の南半分が日本の領土になります。また、朝鮮での日本の優越権を認め、「旅順」「大連」の租借権と満州南部を走る鉄道の権利を日本に渡しました。この鉄道は、後に「南満州鉄道株式会社」が経営し、日本の満州支配の要となりました。

 

 ここで確認しておきたいのは、現在もまだ問題が解決されていない北方領土です。いったい、日本とロシアの国境は、どこなのでしょうか。「ポーツマス条約」をかわした時点で、樺太の北緯50度以南は日本領、以北はロシア領となっています。また、「千島全島」は日本の領土です。それは、第二次世界大戦が終わるまで変わりませんでした。しかし、第二次世界大戦で日本が負けたことによって、国境について、ロシアが勝手な主張をしてきます。そのことは、また後で説明しましょう。しかし、正式に取り交わした書類での国境は、今ロシアが主張しているものとは違うということを覚えておいてください。