第21回 秀吉の全国統一  

 

戦国武将の中で、豊臣秀吉ほど出世した人はいないでしょう。

 実家は農家(? この頃は農民が戦の時だけ足軽になりました)。侍になりたくて、家出。木下藤吉郎と名乗り、1554年あたり(秀吉18歳位)から、織田信長に仕えます。37歳頃に長浜城の主となり、羽柴秀吉と名乗りました。1582年に本能寺の変。秀吉46歳。織田信長に仕えて、数々の功績をあげ、この頃には、織田家の重臣となっていました。明智光秀を討ったあとは、織田家の後見人をしていましたが、1585年関白、1586年には太政大臣になって頂点に立ちます。秀吉50歳のことです。本当は、幕府を開きたかったのですが、簡単に言っちゃうと、上級武家の出身ではなかったために、征夷大将軍の肩書きをもらえなかったということです。
(ちなみに源頼朝も足利尊氏も徳川家康も、清和天皇の血を引き継いでいるといわれています。)
                                                                       本当かしら?


 秀吉の政策としては、太閤検地、刀狩の2つが挙げらるでしょう。

 太閤検地では、田畑と屋敷の面積を測り、収穫高を調査して、それに応じて年貢を決めました。これにより、荘園制度はなくなります。また、それまではバラバラだった、いろいろな単位を統一しました。例えば、1反という土地の面積の単位や、お米を量る枡の大きさを決めました。ですから、全国どこでも、同じ単位で測ることができるようになったのです。(秀吉の枡は、現在の枡より少し大きめです)

 また、刀狩では、農民から武器を取り上げることによって、農民が、農業に専念するようにしました。そして、武士は城下町に集め、農民は農村から移住してはならないとか、転職してはならないとか決めました。これを兵農分離政策といいます。

 

 これらの政策は、この後の時代を作る重要な基礎になりました。江戸時代が長く続いたのも、この政策があったからだと言っても過言ではないでしょう。

 

 また、秀吉は、朝鮮を2回攻めています。しかし、これは失敗。多くの出費により、豊臣家を没落へと導いてしまったのです。(ンッ?どこかで聞いたぞ。そうだ!元寇だ。と思った人は、すごいぞ!) 1598年、秀吉は、家康らに息子を頼み、胃がんでこの世を去ります。62歳のことでした。

 

 天下をとってから、12年。さて、この12年は、秀吉にとって長かったのでしょうか、短かったのでしょうか。あなたは、どう、思います?

 

☆☆ 戦国武将の一人、秀吉の生涯にふれよう! ☆☆