第22回 秀吉亡き後は 家康の思うがまま   

                             

豊臣家も秀吉という大黒柱を失った後は、秀吉の重臣たちの争いになります。家臣といったって、元は欲望のかたまりの戦国大名ですから・・・。その中で飛び出したのが、徳川家康です。家康も、静かに秀吉に仕えていたわけではありません。最初は、織田信長の息子を盾に、秀吉をつぶそうとしていたのです。しかし、それは果たせませんでした。仕方なく秀吉の家来になった家康。それからは「狸親父」です。秀吉の信頼を得て、死ぬ間際に、秀吉が息子の将来を託すほどになります。(実際は裏切りますけどね)

 

 1600年 関が原の戦い この年号は絶対に覚えておきましょう。「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、この戦いで豊臣家を抑えた家康は、天下をとることになります。それから3年後の1603年、征夷大将軍に任命された家康は、江戸幕府を開きました。 家康60歳のときです。その後「大政奉還」まで15代、265年間の長きにわたり、徳川家は日本国を治めました。

 

 徳川家が何故こんなに長続きしたのかというと、それは、家康から家光までの3代の間で、世の中の体制を徳川家に有利なように、しっかり固めたからでしょう。
 (1) 士農工商の身分をはっきりさせたこと
 (2) 武家諸法度で、大名をしっかり統制したこと
 (3) キリスト教を禁止して、鎖国したこと
 (4) 慶安の御触書で農民を、禁中並公家諸法度で天皇や公家を統制したこと
 (5) 金山や銀山を幕府の直轄地にしたこと
など、挙げれば数限りないですが、要するに、以前の幕府に比べて、世の中の体制をしっかり作りあげたことが、長続きの基本だったように思われます。

 

 1614~15年の「大坂の陣」で、家康が豊臣家を滅ぼしたことによって、戦乱の世は終わりました。織田信長に始まった天下統一は、豊臣秀吉の手を経て、ようやく徳川家康によって成し遂げられたのです。その間、約30年。「応仁の乱」から数えると、約150年。この時代は戦いばかりで、緊張の時代であったと思いますが、応仁の乱があったから、下剋上の世の中になり、いろいろな戦国大名が争ったから、家康がしっかりした体制を築くことができたのだと思います。

 

 過去の失敗を教訓にし、よりすぐれたものを作り上げる これが、人間なんですね。人間のすばらしいところなのです。だから皆さんも、失敗が必ず自分を高めてくれると信じて、いろいろなことに挑戦してくださいね。

                 
☆☆ 歴史で人生を学ぶ・・いいですねぇ ☆☆