第24回 江戸幕府のしくみ

 

さて、最初に徳川幕府の体制を話しておきましょう。

 

 皆さんもご存知のとおり、地方を治めていた武士は、鎌倉時代は御家人、室町時代は守護大名、安土桃山時代は戦国大名でしたが、江戸時代は、大名でした。それも、大きく3種類に分けられていました。徳川家康の子や子孫で大名になった人を親藩大名といいます。尾張藩(名古屋)、水戸藩、紀伊藩(和歌山)を御三家と呼びます。徳川家直系の大名ですね。将軍に跡継ぎがないときには、この御三家のうちから将軍を出すという重要な役割がありました。例えば8代将軍吉宗は、紀伊藩出身です。ちなみに、徳川家の血筋というと、「徳川」という名字はもちろん、他に「松平」「一橋」といった名字もそうです。友達にこの名字の人はいませんか?「徳川家康」の子孫かも・・・

 

 この親藩大名は、幕藩体制を続けるための要所に配置され、他の大名たちの監視をしていました。次に、「関が原の戦い」以前から徳川に仕えていた人たちを譜代大名といいます。そして、「外様大名」を監視したり、幕府の要職についたりしましました。前述の外様大名は、簡単に言っちゃうと、「関が原の戦い」前後で、徳川家康の方が強そうだからとか、豊臣に勝ったからという理由で、徳川に仕えた人たちです。だから、江戸から離れたところに藩を構えさせ、徳川に反旗を翻さないように常に見張っていました。いちがいには言えませんが、東北や中国・四国・九州といった地方の大名は、外様大名と考えてよいと思います。「前田」「島津」「毛利」「伊達」といった大名です。しっかり見張っていたはずだったのですが、結局、九州や中国地方の藩によって徳川幕府に終止符を打たれてしまいます。

 

 話はガラッと変わって、「このお方をどなたと心得る。先の副将軍水戸光圀公であらせられるぞ。頭が高い、控えおろ~う。」という名ゼリフで有名な水戸黄門。この方には、数々の作られた話がたくさんあります。全国を旅していたとか、「副将軍」の地位についていたとか・・・実際には、旅はしていませんでしたし、「副将軍」という地位は、徳川幕府には存在しなかったようです。

 徳川幕府で、将軍の次にくるのは、老中です。そして、若年寄。「あれ、大老は?」・・・「大老」は臨時に置かれる最高職でした。大老になれるのは、4家だけ。「酒井」「井伊」「堀田」「土井」の4家だったそうです。〔わが街、前橋は大老をした酒井の殿様の国でした!!〕

 

 その他、「京都所司代」「大阪城代」「寺社奉行」を置き、朝廷や豊臣家関係、寺と神社を特別に監視していました。なんといっても反乱を恐れていたのですね。老中の下には「大目付」「町奉行」「勘定奉行」「遠国奉行」をおきました。

 

 また、一般の人たちは、五人組という連帯責任をとらせるしくみによって統制されました。農村では、「庄屋(名主)」が村内の治安や運営をし、町では、町名主などの「町役人」が町の運営をしました。

 

 江戸幕府のしくみや身分関係を詳しく知りたい人は、「古典落語」と「時代劇ドラマ」をご覧ください。「代官って何だ? 奉行って何だ?」という高等な(?)疑問から、一般民衆の生活まで、あらゆる疑問に答えてくれますよ。楽しんで勉強しましょ!

 

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